食に関する(´ω`) 5

わたしたちの日常生活のあらゆる細部に評論家が介入し、わたしたちは彼等の批評性を通ずることなしには「息もつけない」ありさまであるから、その味覚についてもまた、彼等の判断するところに委ねざるを得ないのだ、とする考え方もあります。


どの考え方が正しいのかは、今のところ誰にもわかりません。


しかし少なくとも現在、料理評論家の方に食物の味の良否を判断するはっきりとした規準があるから、わたしたちがそれを受け入れているのではなく、わたしたちの方にそれがないから、単にそれを反論出来ないでいるに過ぎない、という事実は否定しようがないのです。


かつて彼等が毒見役であったという記憶から、わたしたちは彼等に対して潜在的にうしろめたく感じているのであり、彼等もまた、無意識であるにせよ、そこにつけこんでくるのです。


偏食を矯正せず、「美味いか不味いか」ではなく、「好きか嫌いか」だけを固持することが、彼等をのさばらせない唯一の方策ではあるのですが・・・。

食に関する(´ω`) 4

わたしたちがいまだ味覚について初歩的にしか教育されていない幼児の段階において、食物について「好き」「嫌い」の判断を下せるのは、先天的に何らかの規準をすでに持っているせいにほかならないからです。


この個別的な「好き」と「嫌い」の判断を支えた規準が、やがて普遍的な良否の判断を支える規準に、洗練されていかないはずがないのです。


にもかかわらず、人々が、成人して料理評論家たちの押しつけがましい規準を唯々諾々と受け入れてしまうのは、この個別性を普遍性に置きかえるべく行われる、教育課程に問題があるせいではないのでしょうか。


つまり、本来わたしたちは味覚についてのはっきりした規準を持っていたにもかかわらず、教育によって、むしろそれを失いつつあるのではないか、というのがこの考え方の骨子です。

食に関する(´ω`) 3

奇妙な話ではあるものの、このいきさつを説明するべくいくつかの考え方がないわけではないのです。


ひとつは、わたしたちが食物の味の良否を判断するのは、もって生れた感覚によるのではなく、後の習慣とか教育によってどうにでもなるものであり、したがって、食物の味に良否の差をつける規準などもともとなかったのだ、とする説です。


規準など最初からなかったのであるから、料理評論家が口から出まかせに「美味い」と言い、「不味い」と言ったことに対して、誰もさからうことは出来ない。


「なるほどそんなものか」と思うしかないのです。


もちろん、「そんな馬鹿なことがあるはずないじゃないか」という考え方もあります。

食に関する(´ω`) 2

必要のは、きわめて原始的で素朴念覚だけであって、知的な判断力ではないのです。


ところが、当の料理評襲自体がそう考えていたにもかかわらず、現実はそうではなかったとか。


最初彼等は、「そんなことわざわざお前に言ってもらわなくても、食べてみればわかるよ」と一般大衆に反論されるのを怖れて、きわめて小声でおずおずと「これは美味い」「これは不味い」などとつぶやいてみたのだが、案に相違してそれはそのまま素直に受け入れられてしまったのです。


次第に彼等は自信を持ち、最近では押しつけがましくさえ感じられるほどなのだが、人々はどうして彼等にそんなことが出来るのかを、疑うことすらしないのです。

食に関する(´ω`) 1

自らの生命の危険を賭して食物の毒であるか否かを確かめていた料理評論家が、現在肥満の危険書す程度で、その味わいを確かめているだけなのだとすれば、職業人として馨が堕落しつつあることは、誰の目にも明らかでしょう。


何ものか養べてみて、それが「美味いか不味いか」を判断することなど、誰にでも出来ることだからです。


もちろん当の料理評論家自体も、その点については不安を抱いてなかったわけではないのです。


文芸作品の良否を判断することは批評行為であるとしても、食物の味の良否を判断することは、煮えたったやかんに手を触れて「あつい」と感じることと、ほとんど同様のことだからです。

子育てのなかで その9

興味が深まっていれば、実用的な必要にこたえることはなくても、音節が音素から構成されているということを将来認識するための地ならしになるでしょうから。

そういう意味では、いわゆる日本式よりもヘボソ式の方が、音素をなるべく正しく表そうとしているのでよいのではないかと思います。

なお、知恵遅れで、かなで書くことができない小学生にローマ字を教えたところ、長い日記もローマ字でなら書くようになったという例を経験したことがあります。

神謡の背景

神謡の背景にあるものは、ミヤマカケスという鳥は、舌が肉質で他の鳥などの哺き真似ができることから、雄弁な神と呼ばれているが、この鳥が集ってギャーギャーと騒いでいる下には、必ず重要食糧であるシカの群がいるのです。


何故シカの上でカケスが騒ぐか不明であるが、永い経験でカケスが集ってさわいでいるのは、シカの所在を知らせる信号なのであり、その信号を出してくれるカケスが、神です。


その神の履歴を伝承するのがユーカラなのです。


元来ユーカラは神々の話であったが、文学的に次第に成長して、国土建設のために、異民族との間に永い間死闘を繰り返し、火にやかれて白骨になってしまうが、巫術を使う許嫁の乙女の力に助けられ復活し、強大な敵を倒して、破壊された国土を再建するという、英雄詞曲もあり、一般にはこれをユーカラといい、神々の物語りを神謡と呼ぷところもあるし、英雄詞曲をサコルペ(節をもったもの)どもいう。


また、北海道旅行で知ったのですが、女性が物語る、主人公が女性である女性謡曲というのもあります。

子育てのなかで その8

「要求の強さ深さにマッチして」というのは次のようなことです。

もし「K」という字を何と読むか聞かれたら、「ケイ」と読むこと、英語のアルファベットの文字で、かなとは違うことをいってあげればよいので、ローマ字つづりまで持っていく必要はありません。

「KUSA」を何と読むか聞かれたら、ローマ字で「くさ」と書いてあるというのにとどめるのがよろしい。

もしそういうことをくり返して興味が深まるようでしたら、そこではじめてアルファベットの二十八文字や、それで日本語の音を表す方法などを教えるとよいと思います。

子育てのなかで その7

ローマ字

ローマ字で書かれたものを読む必要は、子どもの世界ではほとんどありませんから、実用的な意味はあまりありません。

順序からいって、ひらがなの学習の方が先になるべきであるのは当然です。

けれども、お子さんが教わりたがるのならば、その要求の強さ深さにマッチした程度において教えるべきでしょう。

一般論として子どもが知りたがる限りは、その知識欲に何かの方法で答えてやるべきで、「そんなことを知る必要はない」とトビラを閉ざすのはよくないと考えられています。

子育てのなかで その6

しかったり、失敗したと思わせたりしないように、軽くいうのがコツで、子どもがそれを無視したり、同じ誤りをくり返したりしてもあまり気にしてはいけません。

六、七歳になって、右、左など空間認識がもう少しはっきりしてきた段階で仕上げをすればよいのです。

もちろん、小学校の中学年になっても、まだ鏡映文字が多いようでしたら、特別な対策を講ずる必要があります。

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